あの日から続いてきた今日。
震災から13年を迎える相双地域と、被災者ではない私。
2024年1月。震災から13年が経とうとするこの冬に、私は南相馬市・浪江町・双葉町を訪れました。青い空の下、心地よい気候の中で潮風を感じながら、これまでと、これからのことを思います。今を明るく生きる現地の人々との交流を通じて感じたことを、ただ感じたままに、書かせていただきました。
震災から13年
その当時、私は愛知県名古屋市の高校生だった。学校が早く終わったので友人と街へ出て、商業施設の3階で化粧品を見ていた時だ。足元が大きく、ぬらりと揺れて、脳がふわっとした感覚になった。一瞬、自分の身体だけに何か良くないことが起こったのかと思ったのだが、隣を見ると友人も同じように動揺している。地震だった。
家に帰ってテレビを見ると、悲惨としか言いようのない光景が広がっていた。夕飯を、ほとんど黙って食べた覚えがある。遠く離れた地で、テレビでしか情報を知り得ない自分が、果たして被災地の人々を想い泣く資格があるのか、それさえも当時の私には分からなかった。
震災から13年が経とうとする今、その場所を訪れる機会をいただいた。滞在中、実際に被災した方々の話を聞いて感じたことを、ただ感じたままを忘れないために、書き綴ってみたい。
牛のいない牛舎で出会った笑顔
福島の人々は、意外なほどに明るかった。最初に出会った笑顔は、小高区にある半杭牧場の半杭一成さんだ。
半杭牧場は、東京電力福島第一原子力発電所から20km圏内に位置する。そのため半杭さんは、震災当時、牛を置いての避難を余儀なくされた。飼育していた牛34頭が餓死。自然豊かな土地に、当時のままの姿で牛舎が佇んでいるが、牛はもういない。
多分私は、震災について尋ねづらそうにしていたのだと思う。そんな様子を察してくださったのだろう、半杭さんは穏やかな口調で、自ら話を聞かせてくださった。何故避難に至ったか、牛を置いていくことに対してどのような想いだったか、やっと戻ることができた時の光景、そして今日に至るまでのこと。ここに詳しくは書かないが、私が聞いた印象を述べるとすれば、その穏やかな口調の裏には、やり場のない悔しさが滲んでいた。
無念。……牛舎の外に置かれた慰霊碑には、そう彫られている。どれほど無念だったろう。私には想像することしかできない。
「ここはね、やっぱり壊せないよ」。仄暗い牛舎の中で、奥から差し込む光を眺めながら、半杭さんはそう言った。牛舎には、腹をすかせた牛がかじり、細くなった柱が残されている。半杭さんは震災後、この柱の写真を肌身離さず持ち歩いていたそうだ。無念さと共に生きてきた13年だった。
しかし今、半杭さんはその無念に、未来を重ね始めていた。
「今は近くの相馬牧場で、飼料生産の手伝いをしています。ずっと酪農をやってきたから、やっぱり酪農をやりたい。気持ち的にもう牛さんは飼えないけれど、酪農自体を辞めたいとは、思わないんですよ」
再び酪農ができて嬉しいと、半杭さんは優しく微笑む。半杭牧場近くの相馬牧場では、現在羊や馬がのびのびと暮らしている。伺った日のちょうど前日、羊の三つ子の赤ちゃんが生まれたとのことで、懸命に立っている様子を見せてもらった。その尊い命の姿は、未来でしかなかった。
半杭さんは、明るい。それはそうせざるを得なかったというのもあるかもしれないが、しかし私には、自分を守るために無理に貼り付けたようなものではなく、時間をかけて生まれた、ほんとうの笑顔に見えた。半杭さんが牛のいない牛舎で見せた笑顔は、13年という月日そのものだ。そして、未来だ。消えることのない悔しさを抱いて、しかし今、心から笑っている。牛舎に差し込む光の方を、向いているのだ。
あの日よりずっと前から、そして今も、海は青い
日本画家の舛田玲香さんもまた、震災を経験した一人だ。当時玲香さんは東京の美大に通っていたが、浪江町の実家が東日本大震災の津波で流された。卒業を間近に控えた3月だった。
見渡す限りのススキとセイタカアワダチソウの中に、ぽつん、と木が生えている。実家があった場所を見分けることのできる、現在唯一の手がかりだ。そこに家があったとは、到底思えない。
セイタカアワダチソウは外来種で、本来歓迎される植物ではない。これだけ増殖したのは、家が流され何もなくなり、人が住まなくなったからだ。風にそよぐセイタカアワダチソウが、辺り一面を幻のように見せていて、しかしだからこそ、そこでかつて起こったことがどこまでも現実なのだと感じさせた。美しいが、その背景を思うと残酷な光景でもあった。
しかし、セイタカアワダチソウの向こう、空や山々、そして海は、変わらぬ美しさのままだという。
「私の原風景。家の周りの様子はすっかり変わってしまったけど、この土地の海や木々を見ていると、何に心を動かされてきたかを思い出せます」
玲香さんは、鮮やかな草花を、大胆な構図で、しかし優しいタッチで描く作家だと思う。その自然への愛情深い眼差しは、間違いなく、地元浪江町で培ったものだった。
「海と空の青は、今日も綺麗」……堤防の上で玲香さんがそう呟いたことが、心に残っている。そうか、それって福島の人々にとって、当たり前ではないのだ。しばらく海を見ることができなかった人も、あるいは今でも近づくことが怖い人も、やはりいるだろう。けれども海は、あの日よりずっと前から、そして今も、変わらず青い。玲香さんはこう続けた。「最近になって心境の変化があり、海や波を、また描きたいと思い始めたんです」。
海は光をいっぱいに映し、肌を流れるような心地よい波音を立てていた。潮風に頬を撫でられる私たちの頭上で、どこまでも青い空が、次第にオレンジ色に染まっていく。玲香さんはどのような海を描くのだろう、と私は考える。それはきっと、玲香さんだけの風景で、しかし同時に多くの人が共感できる、普遍的な美しさがあるのだろう。
自然の力を、海を前にして実感する。それは畏怖の対象であり、同時に、安らぎを与えてくれる存在でもあった。
大丈夫 うまくいくよ
震災遺構として保存されている請戸小学校を訪れた際に出会った一言が、印象に残っている。「大丈夫 うまくいくよ」。津波により破壊された校舎の一階、ある教室の黒板に書かれた一文だ。
隣には「くじけるな」「つらいですね」「前を向いてしっかり生きていくのですよ」などの文字が並ぶ。これらは、当時捜索にあたった自衛隊員や、のちに一時帰宅をした方々が、書いた言葉なのだそうだ。
「大丈夫 うまくいくよ」。ここに暮らしてきた方にとってそれは、他ならぬ自分たちが、最も信じたかった言葉に違いない。……しかし同時に、この大丈夫という言葉が、彼らを苦しめたような時もあっただろうと思う。大丈夫ではない長い長い時間を、もしかするとまだ大丈夫ではない今を、生きている人たちは、どうしたって、生きている。全部抱えながら、生きている。
当時の姿をそのまま残したままの痛ましい光景も、まだ沢山ある。例えば私の訪れた双葉町では、今でも道路や住宅にバリケードが設置されている場所もある。ここは町の95%が帰還困難区域に指定され、また全域に避難指示が出された地域だ。一部のエリアで避難指示解除がされて暮らせるようになったのは2022年8月30日、つい最近のこと。
バリケードの向こう、住居の道路に面した窓から、日に焼けた大きなテディベアが見えた。寂しそうだ、と思うと同時に、この今は、あの日を含んだ今なのだと、実感した。
「大丈夫 うまくいくよ」という言葉を前に、半杭さんや玲香さんの笑顔を思い出す。彼らは、どこかで大丈夫だと切り替えて、今笑っているのではない。あの日々の延長を、ずっと生きている。
私は正直この地に来るまで、実際に見るまで、あの震災が、津波が、原子力発電所の事故が実際に起こったことだと、どこかで信じられずにいた。信じたくなかったのかもしれない。だけどそこには人がいて、土地があり、海と空があった。同じ時間が流れていて、今日まで続いていた。
何を語るべきか、これを書きながらもまだ迷っている。けれども被災していない私が、滞在を通じて感じたことは、私もまた、あの日の延長線上に生きているということだ。彼らは今を生きている。私もまた、今を生きている。私たちはあの日から続いてきた今を、今日も重ねていくのだ。
相双地域では現在も復興が進められている。浪江町から双葉町にかけて海側に大きな公園をつくる計画があると聞いた。青い空の下、波の音に子どもたちの声が混じる日も遠くないかもしれない。
浪江町東日本大震災慰霊碑を前に、13年分祈るつもりで目をつむると、海から吹く風がより鮮明に感じられた。背中を押されている気がした。
だから、あえてこの言葉で締めたい。大丈夫、うまくいく。私も、そう信じている。
Writer Profile
山田ルーナ
愛知県在住のフリーランスライター。芸術大学の音楽科を卒業後、エッセイやコラム、取材記事など、ウェブコンテンツを中心に執筆を行う。画家の夫と一匹の猫と暮らしている。
<ライターおすすめ!相双地域の好きな場所>
道の駅なみえ(浪江町)。冬になると裏手にある請戸川に白鳥が集い、くう、くうと、愛らしい鳴き声を聞かせてくれます。敷地内にあるラッキー公園も、ポケモンファンとしてはたまりません。